お花見の季節になりましたね。ずっと更新していなかった。
日本を日本たらしめているものは何か、と問うて「絵とことば」であるという答えを人からもらったことがある。これは、これから絵を描いていくうえで私の道標となる言葉であろうと思う。イラストレーターの端っこにしがみついて、かろうじて生業と呼べるもの(くちすぎではなくなりわい)を持っているといえる私が、常に心に思い描くべきことであろうと。ナショナリズムのことではなく、土地、が地域、となりくに、となる、そういったなにかを支えているもの。私がその一部となってそれを支えるのだ。名もない花を描いた京の絵の本が手元にある。言葉が入ってくる前に、日本は絵の国であったという解説がつけられている。
言葉的な絵と、絵的な絵がある。人格の交わりを可能にする力を持つイラストレーションというものがあるとすれば、絵的な絵でなく言葉的な絵においてであろうと思われる。京の絵の本に載せられた図案的な絵たちは、世界を見せている。色彩と形態は、美しさを感じさせる、ということの他に、言葉のように何かを表示あるいは指示している。それは、見せる、ものだ。何かを指し示すものだ。
あまり書くとこんぐらかるのでやめておく。
今日は、母と非常に互いの自己愛を支え合う形で話をして一日が終わった。傍で聞いていたら交換可能であるという意味で聞き苦しいと感じたかもしれない。ただ、私には口があるのだ、ということだけが分かった。
口がないかもしれないと、私は思っていたのだな。

午前中も午後も寝倒した。今年の一月からずっと、走ってきたみたいな感じがする。本気の絵を描くなら、協力する、自分の店に絵を飾るし販売も可能かどうかわからないけどする、という大切な友人の言葉で、油絵を描き始めたし、描いたからにはと見せに行った遠藤剛毅美術館で基礎を教えることが出来ると言われてデッサンも休みがちながら習い続けた。感覚を磨くんじゃなくて、実在の追求だ、と言われて、これはやる、と決めた。友人が絵を飾ってくれたときには、もうここで私の人生ストップしたほうが潔いかもとも考えた。ここにきて、なにやら不格好な絵を描いて、ああ、ゴールとはこれだったのかと思う。一休みして、走った走りを振り返りたいと思う。
眠剤飲んでるし夜も遅いので、また後日改めて書きます。
同じことを繰り返すのも嫌だったし、過去に縛られたくはなかった、未来のことを考えていたかった、というロバート・フランクの言葉に感じ入るものがあります。明日写真集が届きます。

11月になった

寒さでターツァイは本葉を二三枚だしただけでどんどん色が薄くなっていく。水のやりすぎか、夜は部屋にいれるべきか。
わたしが、ターツァイを、枯らす。わたしの責任で
ほら見て、これ枯れかかってる、と言って母に安心を求める私がいる。母に、責任をとってほしいのだ。なすりつけているのだ。
権力に抗うことについて、考えるけど、べ平連のリーダーたちとか、唐牛健太郎とか、みんな、自分の足で立っていたに違いない。自分の拠り所を権力に求めたりしなかった。自分の足で立っている人は、人を、決めつけたり、道具にしたり、しない。そういう人が求心力になることはある。肯定されたいのだ。だけど、権力に反抗したからって、自分は正しくて相手はまちがってる、ってなったら、自分の足で立っているとは言えない。相手を自分の正義のための道具にしている可能性について。人とつながっているという感覚を求めて、学生運動のことを美化している人に会ったこともある。
敬愛するイラストレーターの先輩でも、人に、高飛車にでたりしないし、自分の好きなことをやっているひとは、人のことも肯定する。繋がってる、という感覚を求めたりはしない。
市民運動してるひとで、人を利用しないひとをみると、安心する。
私は通院して服薬しているけど、薬に頼らずに、自分の病を引き受けることができるかもしれない、と思ったことがあった。主治医は、ダメというだろう。止めたかったら止めてもいいけど、どうなろうと自己責任ですよ、という。主治医からは、よく、人から薬が良くないと言われてやめて、また病院に頼ったら、今度はその人は人の言うことに左右されなくなりますよ。そういう話をされたことがある。
それが頭にあったから、止めなかったけど、でも、薬を飲んでいようがいまいが、人を利用して自分を肯定してもらいたいというのは、私の中に常にある悪だ。
母のことを、利用してないか。
アドバイスくれた友人を利用してないか。
社会的通念から見れば、統合失調症の人に、責任がとれるはずがない。ここまで書いて書けないけど、例えば精神鑑定をして犯罪が責任能力なしとみなされるとか、私が精神疾患だったら、責任能力はない、とみなす人は、かなりの数いることは、わかる。
私は責任が取れないのか。
私は人を利用しつづけるのか。
自分の足で立っているか。
私の課題です。

○○な日

昨日がどういう一日なのかについて、何とか名前をつけようとしたが、できなかった。
通い始めたデッサン教室を、イラストレーションの仕事が来て、始めたばかりなのにお休みして、翌週、しかも電話で、先生のかつて会員だった画壇に出品したいです、とか言ってしまう。電話ではだめなので、とりあえずお話しは昨日の教室で、ということになっていた。
もともと何かタイトルをとる、ということは、絵を描いたら、好きだから自分の店に、本気で絵を描いたら、おいてやる、といって私を励ましてくれた友人の発想からきたもので、で、自分では身の程知らずであることは、感じてたけど、とりあえず本気で描いたものがあったし、花は枯れてしまうものだし、残したい、と思ったので誰にも相談せず一人で決めたことだった。塾生になることについても、絵を見せたことについても、力になってくれた友人だった。
友人とは、とても緊張関係にあって、私のことを「想念を一人で燃やしている気の触れた女の人」だとおもっているのではないか、と、苦しかったわけだが、そう思われているから、なんだ。私のことをどう思おうと、それは私が決めることではなくて、彼の自由だ、と思ったら楽になって、ほんと死にたくなったけど、死なないで、恩師の個展に行った。
個展はよかった。本当に、いなくなってしまってさみしい、と思える、遺作展だった。恩師の奥さんと、さみしいということについて話したりした。そしたら、メッセージでニグレクトされた、電話も出てくれない、だから私はもう死ぬしかないと思っていた、友人から電話が来た。気の触れた女の人、だと思っているのかと不安になって、メッセージで努力していることを伝えたくて、一方的なメッセージになったことを踏まえて、不安になったと言ったら、気がふれている女の人については当たらずとも遠からず、というから、やっぱりか、と返した。ていうかそれは、ああ、あのひと、と言って通じるのは、それだけ身近な人だったことだと、思えばいいというので、言葉って受け取りようなので、配信中にあああの人、といわれたこと以外には、あとは後付のニュアンスなんで、どうとるかに事実なんてものは、ないので、じゃあそう思うことにする。と言った。
死ななくて、よかった。
気がふれているから何、面白いじゃん、それにあなたは、僕の身の回りにいる、どっかおかしな人たちからみたら、美しいよ、というので、また大きなこと言ってるなこの人、と思いながら、とりあえずニグレクトじゃない、とわかって、ほっとした。
彼は友人を亡くしたばかりで、ものすごく落ち込んでいて、様子を動画配信でみて、もう、これはしんどそう、明るいけど、しんどそうだった。でも、電話では、動画は楽しそうだったからほっとしたみたいなことを伝えて、彼は楽しいと言ったけど、でも、外見からは本当のところはわからない。わからないよね、と言えなかった私には後悔が残る。
で、いっぱいいっぱいになって、デッサン教室に行った。
花が枯れると思って焦った、だから出品をあせって電話してしまった話とか、本気の絵を描いたらいいと言ってくれた友人が、もうわたしのことを知らんと言っている、で、描いた絵はもう本気じゃなくなりそうになっている、と言う話を先生にしたかった。プライベート過ぎて言えない。とりあえずダメになっている今の絵を見せた。
でも、デッサン中に絵のことで頭がいっぱいになっていたので、黙ってしまった。電話で光風会に応募するなんていってすみません、という一言も、飲み込んでしまった。そうしたら、先生はシュリハンダカの話をしてくれた。名前も言えないくらい物覚えの悪い、といわれた仏弟子、聖者になった人だ。私は自分がこうしたのが、悪いです、と言う一言がいえないのだから、私の名前を言えないのと同様でそのくらい、おろかものであった。私は入門を諦めようとしたシュリハンダカだ。だけど先生はシュリハンダカに言うように、情熱を持ってただデッサンすることですよ、と君に伝えます、と言ってくださったのだった。
そうして、なんだかやる気ないと言うかトイレでタバコ吸ったりしていた私も、ようやくエンジンかかったのだった。
調子ではなく線で形をとることに関してと、このまま行ったら綺麗な画面をつくることになって、東京芸大受験デッサンになってしまう、もっと実在を追及することだ、というアドバイスがあった。
お祝いに、ケーキを買って帰った。
タバコを吸うことに関しては、だめですよ、と女の先生に言われた。本当に、ダメだと思った。具合悪くなっちゃうひとが、いるんだ、もう路上ですうことも辞めよう、と思った。
そうして、家に帰ってきたらイラストレーションの追加の仕事が来ていた。前に出したものが、ダメダメだったかと思ったけど、追加で仕事来るくらいには描けていたんだ、とおもって、励まされた。
そういう、幸運な一日でした。

冬になった。文章が、ここのところうまく書けていない。飽きられる、ということについて、私には強迫観念がある。もうお前に対してはストップだ、と言われるんじゃないかと常に恐れている。先日、ストップと言われないのだ、と、その人が生きていて私は生きている、そうして与えられるし与えられうる、という事態に遭遇した。私の中は陽に満ちていて、これまで歪めた自分の観念がもはや私を、私という生を病んだりはしないのだ、ということに、遭遇した。そうしてそれは広場の孤独でもあって、人ひとり、一回きりの生を生きている人を目の前にして、雑踏と言う名前でくくったりすることなしに、常に私があなたに何かを与えるのだと、いうときに、自分は安全なところには決していないのだ、この世のひとすべてに、エネルギーを堰き止めたりはしないのだ、というときに、孤独というものを強く感じた。私は流れなのだ。ひとりぼっちの、有象無象に開かれた光なのだ。
油絵を描いている。自分を好きなだけという、地獄のような絵ではないことを願います。

私はナレーションする。聞いてくれる相手が、「聞いてくれる」ひとでない場合でも。父は、私のナレーションした言葉を奪う。母も。Facebookで、このブログで、つらつらと言葉を並べていくのも、聞いてくれる相手を想定してのことではない。そのようにして、世の中はナレーションされた言葉で溢れる。言葉がインフレになって、意味とか価値をもたなくなってくる。そうすると、言葉を発することは罪のような気がしてくる。
聴く、ということがこの現代ではとても大切だ、とかつて私のことを看てくれたカウンセラーの先生は言ってた。
私の、ある種特異な繋がり方で繋がった、大切な友達のことを、心療内科の主治医は傾聴するように、という。父のように母のように、私は彼女の言葉を奪いたくはなかったので、客観に徹する言葉の奪い方をしたくなくて、主観をもって、彼女と接していたのだけどそれがよいことだったのか、わからなくなった。聴くことは、とても大切だ、というのは父と母のように客観に徹したせいで、聴けなくなる、そしてまた主観に徹したせいで、聴けなくなる、ということでもある。主観とはなんだろう。奪う、それは相手を支配することで、こちらのいうことを無理に聞かせようとすることで、だから、主治医は私に、支配しないように、聴くだけにするように、と言ったのだろう。まだわかってない。これ以上は書けない。主観とは、支配するだけのものではないはずだ。
奪い合っている間は、生きていけないのだ。
少なくとも、私を奪う人に対してするように、私は支配したりはしない、と主治医に言いたかった。彼女は私のことを奪ったりは、決してしない人なのだから。小説を書いた。言葉を奪い奪われる関係から脱したかったので。だけど、これもナレーションだ。(題名は「イート・プランツ」にした。植物は世代をつないでいく過程で、実を、他の生物に与える、明け渡すから。これが誰かに何かを「与える」ものとなったらいいと思います。)

人間は矛盾に満ちた存在だ。矛盾を突き合わせて、前へ進むことしかできない。進んだら、道が出来るだろう。
(ずっと、前進するものは嫌いだったし、諸悪の根源だと思ってもいた。転向みたいなもの、と取られてもいいと思う。私にとって人が発した言葉というのは、私が知っていると知らないとに関わらず、意味を持っていたし、人に及ぼす言葉の影響に、効果に、責任を持たないものは嫌いだった。だから、自分の取れる責任の範囲の言葉を発したいと思った。それは、でも、借り物の言葉なのだ。おそらく。)
自分の知っている言葉は、本当に少ししかない。自分を支える言葉は。そしてバラバラで統一がない。自分を支えるものがロゴスたりうるためには、鍛錬のようなものが必要だ。話したり、本を読んだり。
そういうものを憎んできたわけだけれど。
矛盾というのは、例えば、貸し農園で植物を植えているときに、人工的にとか人為的に何かするということの矛盾。なぜ、空いた土地に自生していたものを自分の区画に植え替えるのか。なぜそのままにしておかないのか。自分の区画の土地に植えるものを苗屋で買ってくる、その方が、より「人為的でない」消費のあるがままのあり方ではないのか。それから、まだその段階には至っていないけど、収穫するということ、生えているものをむしり取るということはどういうことなのか。
親との関係も、いろいろある。幾世代にも渡って受け継がれてきた、奪うこと、支配することの関係の継続。与えているつもりが、奪うことになるこの抜け出しがたい効果の波及。信頼というものの発生のし難さや、言葉の問題。
当たり前のことだったかもしれないさまざまの問題を目の前にして、ようやく、受身で受身であった私の中にも、かすかに前進することの意味がわかったわけだった。

定植して芽画が出た丹波黒豆の苗のうちの一本です。友だちが「黒子ちゃん」と名前をつけてくれた。