できないこととできること

 

お寺のことについて、画塾の先生にうまく言えなかった。

何かすることがあって、できたふりをしたら、自分を苦しめる。自分を苦しめたら周りを苦しめる。これは人から聞いたことばだが、ほんとうに、できていない状態が続いている。

問題なのは、仏の道、というものがあるとして、それが、行っては戻りつつする自分の行為の連続を、断続的にちらちらと照らすなにかではなくて、ほんとうに、私がそこをゆくのだと思うのかどうか、なのだ。

画塾の先生に言えたことは、前回は、仏教上の真実は、想定だけどあると思う、ただそこに至るのに、仏教者になることでアプローチすることではなくて、生きることで、アプローチできるのではないか、ということ。これに先生はそうだと言った。

そうして、お寺を継いだら経営上のことが解決する道を示され、私のことを子どもなんですね、と言われた。

今回言えたのは、お寺を継ぐことに、重荷に感じることがあること、だった。関心がなかったらやっても仕方ない、と言われたので、ここは全く強制のない世界なんだな、と海に入っているときのような気分になった。

学校に入ることが、恐怖で仕方がない。ので、何を恐れているのかといえば、集団というものの秩序が、もたらす理に適わない力というものについて、だ。個人でいられることが、私にとっては、仏の道を行こうが、そうでなかろうが、意味を持つ。

ギリシア思想が、私にとって意味があるのではないか。

ひとの内的な働きを、想定して、そしてこれは想定なので洞察ではない、ばらばらにして、裁定して、断片で、自分の身を建てようとすることに、意味はない。

ひとは、常にそこにいるものだ。

私の中に、人間の、すぐれた状態はすぐに滅びゆくと感じる感覚があって、私がすべてをそのようなもの、そのような程度のもの、と判断するのはこの感覚によるのだろうと思う。

だから、頑張らない。

真剣にならない。

碌なことはない。

画塾から帰るとき、喫茶店に寄ったら店員さんがすげなくしてくれた。

私の精神状態をよく分かっていると思う。

帰ってきてもう一度電話して、似顔絵を描いているので、それが形になってから、お寺のことは考えたいと思います。と伝えた。是非考えられるのがいいですよ、と先生は言われた。

恵まれた環境にあるのかもしれない。