念珠の話

[日々]

悪が自分の中にあって、夢に現れる。

ヒトラーになっている夢を見た。ヘイトスピーチをしている団体に、自分がいつ入っていてもおかしくないような気がする。このことを、信頼する友人に言ったら、幸せになるためにあがけない奴が幸せになれるはずがない、と言われた。

普遍の生命について、絵の先生が語っている。私は、そのことについてよく考えもしないで、僧侶になってしまった。苦しくて、何かひとのためにも、自分のためにもできないと気付いて、そうしたら、苦しいを自分のやり方としてやりなさいと言われた。言われたのは心療内科の主治医に。

どんなに苦しくても、それが私なのだ。

そうしたら、誰も、私を支配しようとしてこないことに気づいた。

支配されなかったら、だれのことも、攻撃しない。

偏見を持って、見なくていい。

それは明るい心のチカチカだった。

そうしてしばらくして、私が書いた文章に、レゲエが、普遍の生命を生きるあきらかな方策であり、道であるというような、表現をとって、意識されたことがある。私は、無自覚なままそれを絵の先生に見せたが、普遍の生命というものは、命がけのものだ、君は自分のこともわかっていない、と叱責された。

生きていけないくらい、罪が深いような気がした。絵の先生のことを、自分と同一視したことの罪、自分の問いが、形をなしてはいない、未分化な罪。

諦めて、煙草を吸って、レゲエのライブに行ったあと、また夢を見た。

私の妹が、彼女の同級生の死に、救えたのに救わなかった、見殺しにした、という設定になっていて、殺された彼女は、私をレゲエにつながらせてくれた、尊敬する友人のかつての妻であったという夢だった。彼女の生命に従うその人は、復讐のために、私が不幸になって、孤独の中で責任をとるために、牢屋につながれるために、私とつながっている。

私は、性的に支配されている。そうしてそれは、私の、自己愛を、罰するため。

何が悪なのか。

私が、機会を生かさなかったこと、救える命を救わなかったこと、人を死なせたこと。

私は、殺すのである。

僧侶になると決めたとき、たくさんの切り立った山があって、その一つ一つに、人が上っている。ある山に、禅宗の僧侶がいて、わたしのために、数珠を切って、玉を一つ抜き、祈っている。

私の信仰とは、切れた念珠なのだ。

煙草を吸うことで、人が一人、死ぬのである。私の息は、死んだ息なのだ。

やりたくなくて、やっていることなどない。

時間はない。

おまえは存在が悪である、そうして、だから、小善を積んではならない、とまた夢に言われる。