[日々]

ライブ会場で似顔絵を描いている。

プレシャスなもの、を、色々な事柄の中に見る。

ある人が「あんた何にもいいところないなあ」と、言って、「生きたいやろ」と言って、2000円でスケッチを買ってくれた。

「美しい」は「鬱」「苦しい」だと思う。と言った人がいた。

恩恵は、誰に返せばいいのかわからない。

美術館でのデッサンと近代絵画の実技が3年半になろうとしている。先生の権威に、ついていくのかと、レールに乗るのかと、悩んだのが半年前で、描きたいという気持ちには、陰りがあった。

今いる環境を、作為で、変えることはしないで、自分の力で、どこまでできるか考えた方がいいような気がして、ここにいる。

人に頼ることに、怯えがあったのかもしれない。

人から学ぶことに、怯えがあったのかもしれない。

自力で何かすることが、意味があると、思いこんでいたように思う。

でも、頼ったり、学んだりすることは、非常にテクニックのいることであって、赤ちゃんのように無力でいては、できないものだと最近わかった。

今日は美術館にヨガの先生が来ていた。バウハウスのウォーミングアップの運動の名前を教えてもらった。邪念をなくす、美術館は日常を持ち込まないことである、と教わる。

多分、文化というのは、相互依存的に併存するので、単体で文化なのではないと思う。

私が、苦しいを自分のやり方としてやりなさいと言われた話をしたら、その助言は、苦しいに対してジャッジしないことだ、と言われた。

苦しいを自分のやり方でやる、ということについて、それが価値とか、力であるように思っていたので、受け流された気がして拍子抜けしはしたが、自分が無力なのが嫌なだけで、腹を立てる筋ではないと、帰宅した今は思っている。

ジャッジしないことについて、楽に生きられるようになる、とか、自分の身体が変わると自分に起こる現実が変わるとか、それは、想定される法則ではあるので、楽になってはならない、とか、あまり考えないで、ヨガの先生のことも、いいところを見て、苦手がらないように、したいと思う。自分の周りに起こることを、いいことにするのは、自分の責任、みたいなことを、面白く聞いた。

瞑想には、新月瞑想会でしたことがあったけど、それが無駄だったかと、辛かったけど、文化は単体では存在しないのなら、美術館というグループの中で、個として有為なことができるように、しようと思う。

環境に、感謝しようと思う。

僧侶であるとは、奪う人であってはならないということだと思う。

色々な共同体から、いたたまれなくなって離脱したが、奪う人であったことが、その理由であったように思う。与える人でいつづけるために、努力する義務がある。