11月になった

寒さでターツァイは本葉を二三枚だしただけでどんどん色が薄くなっていく。水のやりすぎか、夜は部屋にいれるべきか。
わたしが、ターツァイを、枯らす。わたしの責任で
ほら見て、これ枯れかかってる、と言って母に安心を求める私がいる。母に、責任をとってほしいのだ。なすりつけているのだ。
権力に抗うことについて、考えるけど、べ平連のリーダーたちとか、唐牛健太郎とか、みんな、自分の足で立っていたに違いない。自分の拠り所を権力に求めたりしなかった。自分の足で立っている人は、人を、決めつけたり、道具にしたり、しない。そういう人が求心力になることはある。肯定されたいのだ。だけど、権力に反抗したからって、自分は正しくて相手はまちがってる、ってなったら、自分の足で立っているとは言えない。相手を自分の正義のための道具にしている可能性について。人とつながっているという感覚を求めて、学生運動のことを美化している人に会ったこともある。
敬愛するイラストレーターの先輩でも、人に、高飛車にでたりしないし、自分の好きなことをやっているひとは、人のことも肯定する。繋がってる、という感覚を求めたりはしない。
市民運動してるひとで、人を利用しないひとをみると、安心する。
私は通院して服薬しているけど、薬に頼らずに、自分の病を引き受けることができるかもしれない、と思ったことがあった。主治医は、ダメというだろう。止めたかったら止めてもいいけど、どうなろうと自己責任ですよ、という。主治医からは、よく、人から薬が良くないと言われてやめて、また病院に頼ったら、今度はその人は人の言うことに左右されなくなりますよ。そういう話をされたことがある。
それが頭にあったから、止めなかったけど、でも、薬を飲んでいようがいまいが、人を利用して自分を肯定してもらいたいというのは、私の中に常にある悪だ。
母のことを、利用してないか。
アドバイスくれた友人を利用してないか。
社会的通念から見れば、統合失調症の人に、責任がとれるはずがない。ここまで書いて書けないけど、例えば精神鑑定をして犯罪が責任能力なしとみなされるとか、私が精神疾患だったら、責任能力はない、とみなす人は、かなりの数いることは、わかる。
私は責任が取れないのか。
私は人を利用しつづけるのか。
自分の足で立っているか。
私の課題です。