人間は矛盾に満ちた存在だ。矛盾を突き合わせて、前へ進むことしかできない。進んだら、道が出来るだろう。
(ずっと、前進するものは嫌いだったし、諸悪の根源だと思ってもいた。転向みたいなもの、と取られてもいいと思う。私にとって人が発した言葉というのは、私が知っていると知らないとに関わらず、意味を持っていたし、人に及ぼす言葉の影響に、効果に、責任を持たないものは嫌いだった。だから、自分の取れる責任の範囲の言葉を発したいと思った。それは、でも、借り物の言葉なのだ。おそらく。)
自分の知っている言葉は、本当に少ししかない。自分を支える言葉は。そしてバラバラで統一がない。自分を支えるものがロゴスたりうるためには、鍛錬のようなものが必要だ。話したり、本を読んだり。
そういうものを憎んできたわけだけれど。
矛盾というのは、例えば、貸し農園で植物を植えているときに、人工的にとか人為的に何かするということの矛盾。なぜ、空いた土地に自生していたものを自分の区画に植え替えるのか。なぜそのままにしておかないのか。自分の区画の土地に植えるものを苗屋で買ってくる、その方が、より「人為的でない」消費のあるがままのあり方ではないのか。それから、まだその段階には至っていないけど、収穫するということ、生えているものをむしり取るということはどういうことなのか。
親との関係も、いろいろある。幾世代にも渡って受け継がれてきた、奪うこと、支配することの関係の継続。与えているつもりが、奪うことになるこの抜け出しがたい効果の波及。信頼というものの発生のし難さや、言葉の問題。
当たり前のことだったかもしれないさまざまの問題を目の前にして、ようやく、受身で受身であった私の中にも、かすかに前進することの意味がわかったわけだった。

定植して芽画が出た丹波黒豆の苗のうちの一本です。友だちが「黒子ちゃん」と名前をつけてくれた。