私は、統一されようとしているのかもしれない。
都構想の住民投票橋下徹市長が敗北会見演説をしているのをみたら、無常と作為についての以前の考えが湧いてきた。何かが死んでしまうとき、それは私が作為で生きているからで、作為から逃れられない限り私という存在がそれを殺したのだ、殺し続けるのだという考えだ。橋下徹の政治生命を奪ったのは、私だ。
恋した人が、他人であることを強く意識する。その溝は、どれだけ配慮されて幸せであろうとも埋まらない。いつでも、関係は解除されうるのだ。関係に実体なんてないのだから。そうして、近づいた距離あるいは近づくために費やした時間と努力を慮って、これから更に近づくためにかけるであろう時間と努力を慮って、気が遠くなる。楽になりたいと、何もないプレーンな私に戻りたいと思う。
死しかない、と思うことがある。
これまでも人の死に私の作為は関与した。身近な人の死、動物たちの死。その物語を生きるとき充分すぎる結果として、祝福された死というもの、意識の終焉があっても何ら間違ってはいない。また人と人との間にある溝は、人を死なせるのに十分であるような気がする。
私が、恋した人との間にある溝に耐え切れずに死んだとして、それはつまらない死であるかどうか、と問うてみたら、少し客観視してみたら、そうだといえる。そうして、死を死ぬことと生を生きることの形式の美しさについて考えずにはいられないのであって、人のために、利他で何かすることができたら、私というものを空間に充満させるのではなく、私と私の容れ物との間にある隙間を意識してからからと音を立てるなにかのために、存在していけたら、美しいと勝手に思っている。私というものを充満させるというのはとてもありふれた、何度も訪れるつまらない私の死だ。
それらはすこし縮んでは伸びる私の有機的連関であって、生還したら、私は統一されたと言えるのではないかと思う。
すこし、体調がおかしいです。一瞬一瞬、なにを決定しているのか得体が知れない。恋した人が約束を守ってくれるのを願うばかりです。

3月になった。
恋をしている。恋の相手が、流してくれている音楽を聴きながら、これを書きます。恋した人が何か言うと、世界はとても曇りがなくなる。うつろではなくなる。それが今の私の現実。
なぜ、現実は、言葉は虚ろなのか、伝わらないのかと考えるけど、言語そのものの特質によるものとする以外に方法があるのかもしれない。築された理論に個人的な感覚を投影するのは間違っているかもしれない。(言葉が虚ろというか、自分の生活形態が虚ろなだけかもしれない。生産に携わっていないしという点で。あるいは、絵を描こうとして失敗し続けること。)が、プラトンのことが書かれた本に、変遷していく腐っていく現実に抗う方法がある、みたいなものを見つけて、そうだ、私個人のなかにも、思考があり言葉がある、それはイデアの写しだ、との発見があって、少し、息がつけたようなところがある。プラトンイデア論は国家や社会に対して向けられたもので、ヘラクレイトスの移ろいゆく事物の世界に生きて、その中で獲得されたものだという。国家権力について語ることは、いつも自分の意識の問題に塗り替えられていく。病気かもしれないけれど。
国家を自分という感覚的な個人が一番強く感じるときは、それが暴力となって表れる時だ。生かされていることとか、愛というものが、結局は暴力に対峙するものではないだろうか。生かされている、というのは、半径3メートル以内の自分の自由。私を殺さないでくれた、ということが、行為へ向かう自発を、肯定する。いや逆かな。私がちいさな常に更新する自由を持っているときに、それはある人が、ある物事が、私を生かしてくれているということだ、と思う。死んだまま生かされているなんてことはない。(自由には責任が伴うというけれど、利他と感謝が伴う、ということの方を強く感じる。)自由について、考えたことはあまりなかった。自由だと思ったことも少なかったし。
自由と言葉との関係はわからないけれど、なにかある。
恋した人は、大切な人がほかにいて、私は失恋したわけだが、この殺されなかったという感覚は、何だろう。愛しくて、未来に開かれていて、とても、あたりは明るい。

開かれた社会とその敵 第1部 プラトンの呪文

開かれた社会とその敵 第1部 プラトンの呪文

夢見る、という自覚があるので、ユートピア思想について知りたくて読み始めた。まだ本題の第9章までいっていない。移ろいゆく事物に関するところだけ読んで、書きました。

しばらく書いてなかった。週刊誌の挿絵仕事終了となった。リニューアルのため。最後から2番目のもの、はじめての試みであったオリジナルで描いたものを載せます。自慢の子だったけど、掲載されたの観たら骨格がなかった。
ゲームのように、異次元を転生して渡り歩く夢を見る。12月は衆院解散選挙があって京都1区でTさんの選挙を手伝った。Tさんはヴィジョンが魅力的で、構築されていて、実行されたらどんなに数段階よい社会になるだろう、と思って、メールし4日間行った。なんか私は舐めている。ゲームのように、やっている、と暗い想念が渦巻く日々だった。ゲームじゃない、目の前にいるのは人だ。なぜそのことがわからないんだろう。選挙戦おわって、交流会に行ったとき、普段考えていることとかではなくてその場でメモをとってブレストしながら意見を考えた。いつもこう。精神が、ばらばらで統一がない。場に合わせているだけ。
なんか昔英会話のラジオ聞いてて以前の職場のことを「前世の職場」というアメリカの言い回しに、腹が立った。人生は一回きりのはずなのに、職場を移ることを決めたのは前の職場のはずなのに、人格はつながっているのに、切れたように転生したとかいうのは腹立った。そういうこと今の自分はやっているような気がする。何度か、これは人生のことだ、ゲームじゃない、と思った瞬間はあったけど、こう出たらこう帰ってくる、ならばこう出るみたいなことをしていて、駆け引きになってしまう。みんな一生懸命やっているのに。不遜じゃないか。たぶん私の人生そのものが、ゲームになってしまったのだ。
生産者さんから直に買わせてもらった、玄米の1分づきがやけにおいしい。

フェアかな

統一された人間になること、は目的にはならない。
湯川秀樹の絵を描いた。イメージは、高校の時の私の理想の、理論物理のひと。悲しみや憤りから解放されて、喜ぶというのは柵(しがらみ)の存在を前提にしているけど、そうではなくて、柵の不在による、絶対の喜びみたいなものを体現したひと。湯川氏のマス・イメージは笑顔であふれている。父はそのイメージは嫌いだというけど。アメリカから原子力を輸入し日本国内の基礎研究はいらない、と言われたことに強く反対したことが納得される。自分の職業への自負は当然だと思う。ただ、それで描いたものはOKでたけど納得してますかって訊かれた(!)調べてなんでだろと思ったのは、人が、社会に自らが提言したこととか働きかけたことについて、責任あるのはわかる。社会に行為した結果社会に何かが生じたというケースはわかる。しかしなんで湯川秀樹ビキニ環礁のときの発言、一個人は社会に対する責任があるっていう発言がでてくるのか。
社会的生きものだからだ、とか恩があるから、例えば他者に、とかというのでは。生きてるだけで他人に依存してるから。これらはわからない。たぶん責任とは、自分のした行動に対して、その結果を引き受けることじゃなくて、良心からでてくるのだ。ああ苦しい。私は良心についてひどく昔に置き去りにしてきたものとしか、思えない。でも不可能、というのと違う気がする。
責任てresponsibilityで、神のcallingへの応答が、いつも、どこでもできるという図式。そういや職業はcallingだし。答えるということを断続的に続けることなのかも。
て、なんか思ったのは次の世代に対する責任ってことを私は意識したことがあるかな、という疑問が生じたこと。病んでいる私が健康な人に対して果たす責任とはなんだろう。

9月になる

7月に、よし『ある絵の伝記』に書かれた「統一された」人間になろう!と思って、考えたりぐるぐるしてますが、秋になったせいか、行動しても思考しても自分がバラバラになっていくようでとても苦しい。あ、あんまり行動はしてないですね。ネットだと、考えて結論を出したりする時間があり、考えて良い方向を探すわけだけど、直感とか、洞察力とか、感覚するものには時間という点で勝てない、ということとかある。録画されたものとか見るとそう思う。手の出しようがないもの。私には不可能なもの。「統一」integratedは、この3週間で近づきたかったけど遠くなりました。(統一って他者に対する統一ではなく、有機的に自分の中身がつながってるあるいは分裂していないという意味です。)このところ前進することが、当たり前になってしまって、抽象だけが残っているのかも。
画像は防災の日のカットの、関東大震災の歌を詠んだ坪内逍遥を描いたものですが、ライターの方が言われるには昭和天皇が思われるとのことで、却下したもの。カットも、絵としていいからという理由で採用になったり、そうじゃないものもある。未知だ。ここ2日連続で、デッサンしている夢を見て現実らしすぎて眠った気がしない。