私はナレーションする。聞いてくれる相手が、「聞いてくれる」ひとでない場合でも。父は、私のナレーションした言葉を奪う。母も。Facebookで、このブログで、つらつらと言葉を並べていくのも、聞いてくれる相手を想定してのことではない。そのようにして、世の中はナレーションされた言葉で溢れる。言葉がインフレになって、意味とか価値をもたなくなってくる。そうすると、言葉を発することは罪のような気がしてくる。
聴く、ということがこの現代ではとても大切だ、とかつて私のことを看てくれたカウンセラーの先生は言ってた。
私の、ある種特異な繋がり方で繋がった、大切な友達のことを、心療内科の主治医は傾聴するように、という。父のように母のように、私は彼女の言葉を奪いたくはなかったので、客観に徹する言葉の奪い方をしたくなくて、主観をもって、彼女と接していたのだけどそれがよいことだったのか、わからなくなった。聴くことは、とても大切だ、というのは父と母のように客観に徹したせいで、聴けなくなる、そしてまた主観に徹したせいで、聴けなくなる、ということでもある。主観とはなんだろう。奪う、それは相手を支配することで、こちらのいうことを無理に聞かせようとすることで、だから、主治医は私に、支配しないように、聴くだけにするように、と言ったのだろう。まだわかってない。これ以上は書けない。主観とは、支配するだけのものではないはずだ。
奪い合っている間は、生きていけないのだ。
少なくとも、私を奪う人に対してするように、私は支配したりはしない、と主治医に言いたかった。彼女は私のことを奪ったりは、決してしない人なのだから。小説を書いた。言葉を奪い奪われる関係から脱したかったので。だけど、これもナレーションだ。(題名は「イート・プランツ」にした。植物は世代をつないでいく過程で、実を、他の生物に与える、明け渡すから。これが誰かに何かを「与える」ものとなったらいいと思います。)