お花見の季節になりましたね。ずっと更新していなかった。
日本を日本たらしめているものは何か、と問うて「絵とことば」であるという答えを人からもらったことがある。これは、これから絵を描いていくうえで私の道標となる言葉であろうと思う。イラストレーターの端っこにしがみついて、かろうじて生業と呼べるもの(くちすぎではなくなりわい)を持っているといえる私が、常に心に思い描くべきことであろうと。ナショナリズムのことではなく、土地、が地域、となりくに、となる、そういったなにかを支えているもの。私がその一部となってそれを支えるのだ。名もない花を描いた京の絵の本が手元にある。言葉が入ってくる前に、日本は絵の国であったという解説がつけられている。
言葉的な絵と、絵的な絵がある。人格の交わりを可能にする力を持つイラストレーションというものがあるとすれば、絵的な絵でなく言葉的な絵においてであろうと思われる。京の絵の本に載せられた図案的な絵たちは、世界を見せている。色彩と形態は、美しさを感じさせる、ということの他に、言葉のように何かを表示あるいは指示している。それは、見せる、ものだ。何かを指し示すものだ。
あまり書くとこんぐらかるのでやめておく。
今日は、母と非常に互いの自己愛を支え合う形で話をして一日が終わった。傍で聞いていたら交換可能であるという意味で聞き苦しいと感じたかもしれない。ただ、私には口があるのだ、ということだけが分かった。
口がないかもしれないと、私は思っていたのだな。