立憲民主党に取り入れていただきたいと希望する政策があるので、是非次の文章をお読みください。

人は価値というものから人は自由になることはない。そしてそれは、比較と競争を原理とする教育によって、堅牢なものとなっている。

人は、価値のあるものを知って、どのようにするか。手に入れたいと思う、学びたいと思う、リスペクトしたり、自分がその助けになったり、したいと思う。さまざまである。恐ろしいのは、価値を目の前にして、自分の無価値を感じることである。無価値であってもかまわないと意思できる人がいるだろうか。

教育において、あなたは価値がある、ということと、外側の社会に、価値のあるものが存在する、ということは、同時に教えられているだろうか。個人的な経験だが、あなたに価値があるということは、学ぶ機会をもたなかった。

無価値であると感じた人間が、比較と競争にさらされている間に身につけることは、結果を出すこと、ひとにとって有意味であることを、証明することである。このため、自分の価値を高めることにすべての労力は費やされる。

すぐに結果をださなければならない、その最も強力な手段は、記号的消費によるものである。金銭を払って、有意味な記号を自己に身につけることにより、人にとっての自己の価値は上昇する。これがお金によって支配されるということ、価値によって支配されることである。

できないことがあったときに、もう一度やってみよう、と思えないのは、プロセスが価値のないものとみなされるためである。

このことは、権威主義となって、日本の多くの組織の中に病のようにはびこっていると思われる。自己の価値を高めることが至上命令となったとき、価値のあるもの、力のあるものに、その価値を保証してもらうことは、リスクの少ない方法だからである。公文書改竄などは、そうして生じているのではないだろうか。

消費者であることは、常に自分の価値を他者依存的に作り続けることでもあり、そこにはハートとマインドの分離がある。ハートがマインドの優位にあることは、容易になされない。生産者であることは、作るためにマインドを使うことであり、それは、脅迫的に自己の価値を高めようとするためにマインドを使うことからは、離れている。

現代社会において、生産者であること、つまり労働者であること、これは賃労働として多くのひとが行っている。生産することは、ところが、消費に依存しており、売れるものを生み出すことによってしか、生産者とはなれない。

生産者であること、労働をすることは、何に依存するものだろうか。労働の尊厳である。

一番の生産は、コミュニケーションという形をとる。エノ・シュミット氏は、ベーシックインカムの提唱者だが、対人的労働は、本質的に対価によってなされるのではないと言っている。

人口減少社会にあって、需要の規模は縮小し、売れるものを作ることによる、経済の好循環は成り立たない。したがって、需要の規模を拡大することを企図する、立憲民主党の分厚い中間層の復元という政策は、別の方向に舵を切るべきではないかと私は考える。

大阪選挙区より立候補した亀石倫子氏の自由についての考えを、政策として実現することを希望する。

彼女が述べたのは、社会への信頼を回復することだと、私は思っている。自己の価値を高めるための、労働ではなくて、労働の尊厳のための労働が、保証される社会であることを、強く願う。

お金という価値が、労働を支配することを停止し、労働が、それ自体として機能する社会の実現のために、ベーシックインカム導入を政策として検討していただきたい。

貧困対策として提唱されることの多いベーシックインカムだが、世代間の対話や、相互理解をむことが、提唱者エノ・シュミット氏によって提言されている。分断された社会から、有機的連関のある社会への信頼の回復として、実現を望むものである。

そしてそれは、ハートのマインドに対する優位性を確保された社会への実現でもある。