3月になった。
恋をしている。恋の相手が、流してくれている音楽を聴きながら、これを書きます。恋した人が何か言うと、世界はとても曇りがなくなる。うつろではなくなる。それが今の私の現実。
なぜ、現実は、言葉は虚ろなのか、伝わらないのかと考えるけど、言語そのものの特質によるものとする以外に方法があるのかもしれない。築された理論に個人的な感覚を投影するのは間違っているかもしれない。(言葉が虚ろというか、自分の生活形態が虚ろなだけかもしれない。生産に携わっていないしという点で。あるいは、絵を描こうとして失敗し続けること。)が、プラトンのことが書かれた本に、変遷していく腐っていく現実に抗う方法がある、みたいなものを見つけて、そうだ、私個人のなかにも、思考があり言葉がある、それはイデアの写しだ、との発見があって、少し、息がつけたようなところがある。プラトンイデア論は国家や社会に対して向けられたもので、ヘラクレイトスの移ろいゆく事物の世界に生きて、その中で獲得されたものだという。国家権力について語ることは、いつも自分の意識の問題に塗り替えられていく。病気かもしれないけれど。
国家を自分という感覚的な個人が一番強く感じるときは、それが暴力となって表れる時だ。生かされていることとか、愛というものが、結局は暴力に対峙するものではないだろうか。生かされている、というのは、半径3メートル以内の自分の自由。私を殺さないでくれた、ということが、行為へ向かう自発を、肯定する。いや逆かな。私がちいさな常に更新する自由を持っているときに、それはある人が、ある物事が、私を生かしてくれているということだ、と思う。死んだまま生かされているなんてことはない。(自由には責任が伴うというけれど、利他と感謝が伴う、ということの方を強く感じる。)自由について、考えたことはあまりなかった。自由だと思ったことも少なかったし。
自由と言葉との関係はわからないけれど、なにかある。
恋した人は、大切な人がほかにいて、私は失恋したわけだが、この殺されなかったという感覚は、何だろう。愛しくて、未来に開かれていて、とても、あたりは明るい。

開かれた社会とその敵 第1部 プラトンの呪文

開かれた社会とその敵 第1部 プラトンの呪文

夢見る、という自覚があるので、ユートピア思想について知りたくて読み始めた。まだ本題の第9章までいっていない。移ろいゆく事物に関するところだけ読んで、書きました。