私は、統一されようとしているのかもしれない。
都構想の住民投票橋下徹市長が敗北会見演説をしているのをみたら、無常と作為についての以前の考えが湧いてきた。何かが死んでしまうとき、それは私が作為で生きているからで、作為から逃れられない限り私という存在がそれを殺したのだ、殺し続けるのだという考えだ。橋下徹の政治生命を奪ったのは、私だ。
恋した人が、他人であることを強く意識する。その溝は、どれだけ配慮されて幸せであろうとも埋まらない。いつでも、関係は解除されうるのだ。関係に実体なんてないのだから。そうして、近づいた距離あるいは近づくために費やした時間と努力を慮って、これから更に近づくためにかけるであろう時間と努力を慮って、気が遠くなる。楽になりたいと、何もないプレーンな私に戻りたいと思う。
死しかない、と思うことがある。
これまでも人の死に私の作為は関与した。身近な人の死、動物たちの死。その物語を生きるとき充分すぎる結果として、祝福された死というもの、意識の終焉があっても何ら間違ってはいない。また人と人との間にある溝は、人を死なせるのに十分であるような気がする。
私が、恋した人との間にある溝に耐え切れずに死んだとして、それはつまらない死であるかどうか、と問うてみたら、少し客観視してみたら、そうだといえる。そうして、死を死ぬことと生を生きることの形式の美しさについて考えずにはいられないのであって、人のために、利他で何かすることができたら、私というものを空間に充満させるのではなく、私と私の容れ物との間にある隙間を意識してからからと音を立てるなにかのために、存在していけたら、美しいと勝手に思っている。私というものを充満させるというのはとてもありふれた、何度も訪れるつまらない私の死だ。
それらはすこし縮んでは伸びる私の有機的連関であって、生還したら、私は統一されたと言えるのではないかと思う。
すこし、体調がおかしいです。一瞬一瞬、なにを決定しているのか得体が知れない。恋した人が約束を守ってくれるのを願うばかりです。