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にゃんこが亡くなってちょうど一ヶ月目が5月4日の連休の真ん中の日で、カットの仕事が一週間空いて、貧乏性だからか仕事が収まってすぐクロッキーに行ったり主治医に予約に母に行ってもらい診察をうけ、妹がかかりつけになっているようである占い師に言われたことの確認だけのために大阪の真ん中にでかけて行ったり、そして愉快なことも不愉快なことも当然ながらあるので、休みは混乱し、鬱っぽくなってますます何かせねばとなって、どんどん時間が消費されていく。占いで霊感がすごくあるので占い師になったらいいとか、あと前世で犯した罪の報い、などという単にこちらが消耗する心理戦のようなアドバイスをもらって、妹のように「元気に」なったりは決してしなくて、少なくとも猫のことを相談しなくて正解だったかなと思えた。大阪の帰りにアセンスで猫の本を2冊衝動買いした。一冊は伯母が一度貸してくれた本で、もう一冊の金井美恵子のエッセイには、トラーという猫を飼い始めることについてとても素敵に書いてある。猫のものに魅かれて買ったけど、金井美恵子がトラーを飼い始めたのが42歳で、すでにベテランの域に達した小説家だったり、そのトラーの死んでしまうことをあらかじめ想像するというか小出しにすることで実際のショックをやわらげようとして、それでは他者に出会わないという批判にはフンといってやる、みたいなのを読むと、わたしはにゃんことの日々が毎日切実、っぽいもので、一日猫と一緒にただ無為に過ごす贅沢なことにしても、別のある一日が過ぎて猫にもわたしにも恵みの一日が訪れたな、と言う感想を持つことにしても、小出しにしてクッションにするなどとは考える機会がなかったので、他者に出会っているかもしれないと思うけれど、てかもう一冊の本を読んでるときに、にゃんがいなくなってわたしの人生はもとのようにだめになった、みたいな発想はにゃんこにとってもあんまりだと、思えたのでそうならないためには、わたしがにゃんこちゃんの寿命を縮めたのではないか、という発想は、やめなくては、にゃんこちゃんはにゃんこちゃん、わたしはわたし、と思う必要がある(ほどにゃんとの一体化にこの間傾いていたのだが)と言う結論に達した。
金井美恵子の喚起力って凄まじい。帯にあった、「猫のように人間はなれないけれど、猫のことが描けるのは人間だからで、そういう意味で金井美恵子が人間でいてくれてよかった」とあったけどその通りだ。とても残念なことに悲しみは癒えない。