4月4日、今から10日ほど前に、にゃんこは亡くなりました。今少しぼんやりしています。亡くなったにゃんこは、3日ほど家にいて、花をかざってやり、そのあとペットのセレモニーにて火葬となりました。失う、ということはつらかったり悲しかったりの心の働きとともに、過去や未来の身体のいる空間の全体にこだますることだと思ったりします。なんか天使っぽいところとしか言いようのないものが、にゃんことの生活の中にはあった。だから少し、それなしで生きてくのは混乱する。
前の飼い主さんに、お知らせした。写真も、渡す約束をした。にゃんは本当に幸せに生きるのにふさわしい、にゃんありがとう、まだまだ生きたかったね、と、思います。猫は看病されているとき、看病してくれる人の愛情に応えようとする、スポイトで、食べたくなくても、ごはんを食べてほしい、というこちらの思いにこたえて食べる、看取られるときは、愛してくれるひとのいるときに傍で看取られる、と知人の伯母が教えてくれたのを、聞いて、心を静めています。
知覚障害はにゃんこが亡くなってからぴたりと止まったようで、あとで再発するかもしれないけれど、なくなった。光と影を私はいくらじっと見ていても平気です。でも、にゃんのいない世界で生きていくことになった。前日にゃんに頭に顎をくっつけてありがとうという気持ちを伝えようとしましたが、伝わっているかどうかは神様しかわからない。
にゃんに、吐くから、と食べさせなかった猫草を、迷ったけど火葬のときに切ってやって添えて一緒に燃やした。そのあとみたら、新芽がでていました。