フェアかな

統一された人間になること、は目的にはならない。
湯川秀樹の絵を描いた。イメージは、高校の時の私の理想の、理論物理のひと。悲しみや憤りから解放されて、喜ぶというのは柵(しがらみ)の存在を前提にしているけど、そうではなくて、柵の不在による、絶対の喜びみたいなものを体現したひと。湯川氏のマス・イメージは笑顔であふれている。父はそのイメージは嫌いだというけど。アメリカから原子力を輸入し日本国内の基礎研究はいらない、と言われたことに強く反対したことが納得される。自分の職業への自負は当然だと思う。ただ、それで描いたものはOKでたけど納得してますかって訊かれた(!)調べてなんでだろと思ったのは、人が、社会に自らが提言したこととか働きかけたことについて、責任あるのはわかる。社会に行為した結果社会に何かが生じたというケースはわかる。しかしなんで湯川秀樹ビキニ環礁のときの発言、一個人は社会に対する責任があるっていう発言がでてくるのか。
社会的生きものだからだ、とか恩があるから、例えば他者に、とかというのでは。生きてるだけで他人に依存してるから。これらはわからない。たぶん責任とは、自分のした行動に対して、その結果を引き受けることじゃなくて、良心からでてくるのだ。ああ苦しい。私は良心についてひどく昔に置き去りにしてきたものとしか、思えない。でも不可能、というのと違う気がする。
責任てresponsibilityで、神のcallingへの応答が、いつも、どこでもできるという図式。そういや職業はcallingだし。答えるということを断続的に続けることなのかも。
て、なんか思ったのは次の世代に対する責任ってことを私は意識したことがあるかな、という疑問が生じたこと。病んでいる私が健康な人に対して果たす責任とはなんだろう。