FINE DAYS (祥伝社文庫)

FINE DAYS (祥伝社文庫)

なるべくなら、ショッキングな事実でショッキングなことには出会っていない読者の興味をそそるのではなく、書く感覚(文体?とか)で興味をそそって欲しいと願う。この小説には、事実があふれていて、どれも引き寄せられる感じの事実なのだが、それらをどこに軟着陸させるかといえば、どこへも着陸させられないでいる。
この本と、次の本をくらべてみればいかにそうか分かると思う。
うつくしい子ども (文春文庫)

うつくしい子ども (文春文庫)

凶悪犯罪を犯してしまった弟を、理解しようとする少年の話である。軟着陸している。
なんで本多孝好は著者は事件(事実のこと)にたよって小説を書くのだろう。1999年以降に出た本は信用できない。FINE DAYSはメンタルヘルスものではないひさびさの読書だったが、それでも興味本位としか思えない、残酷なことや不幸なことに関する著者の視点がつらかった。これは「バトルロワイヤル」からの血をひいている、ように思われる。
小説は、エピソードと感覚の二つの要素を持っていて、感覚がエピソードに勝ったとき、その小説は成功したといえるのでは、と考える。
エピソードが過剰なnoirものというものが出て、「死ぬの大好き」等という本もあって、もう想像力に期待するだけの本は、希少本になってしまったのだろうか。
私的にはこの本がこの傾向のターニングポイントではないかと思われる。
夜の草を踏む (光文社文庫)

夜の草を踏む (光文社文庫)

anan誌上で、安西水丸氏は究極的な形をとって実現可能な恋愛について書きたいと思ったと言っていた。
かつて川上弘美が出たとき、本当に救われるとはこのことだと思った。彼女ですら、デビュー当時の透明感を保っているのは不可能だった。
現実にもひどいことはいっぱいあるのに、何故本のなかにその廉価版を発見しなければならないのか。本てそんなものなのか。