先月の20日、大阪から東京へでかける予定にしていたが、東電の福島原発の配電盤故障による停電が19日にあってから、切羽詰まってキャンセルした。とても、見に行きたかった、演劇。母は、「原発がいくらひどい状態で、今住んでいる日本がひどい状態でも、日々の、楽しむことを犠牲にしたらだめだ」という。正論だが、できるかどうかは疑問だ。そして多くの人が、現実を直視しないという意味ではなく、知っていて淡々と日々をおくっているのだろうとは思うのだが、逆に、私は福一の自己のことを、どっかに追いやってしまいたいというところに立っていて、そして、何かがあって、東京に友だちの作品を見に行こうと思ったのかもな、と思う。(人形師さんで、先日指にけがをしてそれをおしての上演、これはその時の自分としては見に行かなければならないものだった。)私は、福一のことも吹っ飛ぶし、ともだちのけがのこともふっとぶ。なんだろう、自己を演じているのであって、自分がない、ということとつながる気がする。欲望で動いている限り、未来はない。欲望に替わる自己を別に自分の中に見つけるひつようがある。まわりに聞いたら4号機の使用済み燃料プールの危険性を知っている人はあまりいなかった。もし干上がったら首都圏数千万人の避難を要するものなのに。
停電の情報はこちら。小出さんが解説しています。
書いてみて、このブログなんかやだなあと思う。なんでだか。