少し前のこと書きます。お華に行って、お正月の若松を生けて、帰ってきました。衆院選があって気分は撃沈、どうしたらいいか分らない。電車での行き帰りに、NUCLEAIRE? NON MERCIのバッチつけた帽子をかぶってくことにする。ただそれだけのことに、ちょっとためらいがあるのを、というか誰もそんなことしてる人いないよ、頭の中を赤の他人にさらすのか、とかあるけど、乗り越えて人にどう取られてもいいという、自分の満足、というかほんとは敵は自分なんだなというごく個人的な動機でそうしてみた。こういうのはあるいはひとりよがりなのかもしれないが、そしてひとりよがりなのは、運動とかそういったこととしては多数の賛同を得られない、無関心層をふやすだけ、ということはあるのかもしれないが。やってみたら、内面がちょっと動いて、色んな人がいることにいつも見てるはずなのに、ようよう気付いたという気がした。まわりは変わらないけど自分にとってのまわりが変化した。なんでそのバッチつけてるの、とか訊いてこられることはないけど、こっちに説明できるかな、と思うと、訊いてくる人が社会人の人、おじさんとか、そういう人ならば答えられるんだけど、若い学生の人だったら、真剣に向き合えるのか、疑問。些細な一日だったけど、感想は「幸福なこまどりのぎっちょん」だった。ぎっちょんに私の至らなさを込めてみた。家に帰って、父とこまどりというのはなぜ幸福なのか、などの話をした。春を告げる鳥なのか。「かわいそうなこまどりさん」では冬越しもしていたな。郭公とかにくらべたら、鶯にくらべたら、ずいぶん幸福そうだ。