現実をみないことと外向きのこと

8月は毎日のように熱が出て、下がってを繰り返し、あんまり外へも行けなかった。31日にたね蒔き存続お願いのビラを関電前抗議のときに配りに行った。なんか私がいた場所がそうだっただけなのかもしれないが、年配の人がほとんど。その前の前の週にIWJで見たときから、若い人がへっている。だからどうということはないけど、ネット署名に貢献しなければならないので葛藤。私の頭の中がだんだん単純化、というか固く、なっていってて、現実のことをうまく掬えない。ACTAと、たね蒔きジャーナルのことと、瓦礫のこと以外引っかかってこない。それは、現実ではなくて、私の内面の投影であって、自分が注いだ労力に見合って対応してくるもの。目の前にあるものとは異なるものが、私の心に写っている。
橋下市長がどういう意図かわからないが、瓦礫受け入れの説明会の時に、反対派の出席がすごく多かったので、この会場を出れば受け入れに賛成する人は山ほどいる、という発言をして、説明会に来た人たちを無化しようとしていた。どんな立場にいても、何の根拠もなくても、容易く手に入る自分についての感覚。彼は何を見ているのだろう。あれでちょっと参ったかもしれない。
私は何を見ているのだろう。現実は、新聞の中にないように、ツイートの中にもないような気がしてきた。というか面白くない。たとえばパブコメも最初皆出さないだろうという風潮があって、でもすごく集まって、脱原発に寄与したにもかかわらず政府が三菱総研に丸投げ、など、いろいろしてきたわりには、結果がでないから、外向きな自分の側面が疲れてそうなってるんだと思う。内向きにして考える時期なのかも。