昨日はストップ・ザ・もんじゅというところのデモに行ってきました。大阪の御堂筋を歩く。もんじゅの危険性のことはネットで見ただけだけどこわかったので、なんかできないかと思い。参加してみたらいつのまにか一般的な脱原発デモになっていました。4000人くらいだったらしい。風が気持ちよかった。NOの耳をつけている家族連れのお姉さんが横にいれてくれた。楽器を持ってる人が多し。ベビーカーで子供つれてる人とかもいた。原発いままでありがとうさようならという横断幕もあった。途中、原発推進とまでもいかなくても、反反原発のような人たちがいて、原発にかわる代替案があってからデモしているんですか、とメガホンでかなり攻撃的な演説をしていて警官がいっぱい。原発は移行期の発電だし、もんじゅのカオスぶりにそんなこと言ってられないと思うけど、メガホンにぎってるのはちゃんとした社会人の恰好をして、お化粧して髪も巻いて、どういうことなんだ。デモの弊害みたいなことを言いたいんだろうということは頭ではわかる気もする。みんな小競り合いにもならず礼儀正しく歩いていた。警官がルイ。ヴィトンの前に溜まっていたのは何なのだろう。帰り少し人間不信というか、きれいな人、と思ってもどういう人なのかはわからない、と当たり前の感想。デモに参加してみて、参加していないときにときどきあるお祭り好きな自分は、どこか打ち消されていると感じた。
自分にとっていまの事態というのがどういうものなのかはっきりしていないと、デモに行ってもからまわってしまう。なんで参加してるのか、周りの人はみな言えたと思う(たぶん)。でも私にはいえないからつらくなる。予測することはできるんだけど、認識ができない。(脱原発で多少経済が停滞気味になっても構わないと思う。)これまでの人生の享受の幾割かは原子力発電というインフラの上に成り立っていたんだ、知らなくてごめん、と素直に言えればいいのに。西日本に住んでいるということはこういうことなんですか。というか私がそういうことなのか。