文章のかたちみたいなものがあって、それがなければだれもが何もかけないのかもしれない。それで、意識するから個性みたいなものもあるのかもしれない。小沢健二が精力的にライブをしているようで、偶然、いつもみているブログのなかにそのコンサートについて描かれたものが2つあって、あーっと思った。百人いれば百人ちがう事態の受け止め方、というものを一生のうちに私ははじめて目にした。人の文章を読むときにそのひとの持ち味に対する好意が入っていることが多いけど、これまでなにを根拠にそんな好意を、とくにその長年の友達である人には抱いていても不思議じゃないけど、ほとんど行きずりに近い、妹と同じ年代の人に同じように抱いている自分が不思議だ。私の中の大量消費社会に対する是非が問われている気がしてきて、わたしはくやしくなってしまって、涙が出てきた。なんだか今日のはわけのわからない文章だが、大量消費社会については前にも書いたことがあると思うのでパス。やっぱりオザケンが活躍していたときに何歳だったかでちがうのかな、ということにしておこう。だってほんとにちがうんだよ。