感覚するわたしたち

普通は、見る人(Subject)と対象(Object)があって、見る働きがあって、それ(対象)について判断する主体(見る人)がある訳なんだけれども、見る働きの器官である目が、対象にひっついて離れないという現象が私にはある。そのとき目は見る人を離れているので、判断はなんにも生じないのである。
仮にも元哲学徒・・・
画像のSである鳥のどりぃは、Oである花をみて、きれいだとか何々の花であるなどと思う。しかし私は、どりぃにくっついているはずの目を、花にぴったりくっつけてしまうので、きれい、ということがわからない。目がないのと同じである。そのとき花はきれいなのか、そうでないのか。
そんなことを、大学の友人に指摘されたのを、最近思い出しました。悟性の欠陥じゃなくて、感覚器官と悟性の結びつきの欠陥、悟性は無事、働いていますよ、というところでしょうか。主観をうまくもてないのも、自己を客観的に見れないのも、田中一村がきらいなのもすべてこの、見る働きの出発点にあるべきもの、目が、到達点に動いていってしまったのが原因ではなかろうか。